午前1時過ぎ
私・息子・娘は自宅に戻るため車で帰路に
子供達は学校に行かなければならない
帰り道の国道176号線は
福知山線と並行して走っている所が多い
途中、波賀野(はがの)の高架で上り電車がこちらに向かって走ってきた
こちらに向かって走ってくる電車
見る見る大きくなる夜中に一際明るい塊のその姿
電車が私めがけて飛び込んでくるような錯覚になり
思わす車のブレーキを踏む
と同時に胸がつかえ吐きそうになる
「あぁ今電車がこの車めがけて飛び込んでくる気がした」
というと
隣で息子がぽつり、と
「俺、吐きそうや」
・・・後ろの娘は涙を流しながら眠っていた。
午前5時
2時頃に帰った私たち
一応みんな兎に角お布団に入った
しかしそれぞれ熟睡はできなかった
午前5時を過ぎた頃から電話が鳴り出す。
じーは11人兄弟
その子供達の私たちいとこ
いとこだけで何十人といる
TVの死亡覧の氏名を見て、いとこの家にでは無く
我が家に事実確認の電話が親族から殺到
知っている事実とお葬式のこと
殆んどが愛媛県に居住しているため
いとこの元までの交通手段等の話をそれぞれに応じてする
午前8時
ぼんやりとした顔で
娘は自転車で高校に
息子は自転車で駅、
それから福知山線に乗って専門学校に、、、行く予定だった
私は会社に事情を説明し、
今日・明日をお休みにしてもらった
息子が出て5分程経った頃
息子から電話
「おかん、やっぱり行かなあかん?」と
「うん、頑張って行きなさい」
「うん・・・」
また数分して電話
「おかん、自転車のチェーン切れた、行かれへん」
「えぇ!そこに待ってるんやで、車で行くから」
・・その時はまだ駅までだけ送っていくつもりだった
車で息子の通学路を走ると、5kmほど行った橋のたもとで
ぽつんと立っていた
見ると本当にチェ-ンは、どうしてこんな形になって切れるか?
という形で切れていた
車に乗ると息子はしんみりと
「おかん、頼む、俺を電車に乗せんとって
頼むから、俺乗れへん、電車に乗れへん、頼む・・・」
深夜に感じた電車が自分に向かってくる錯覚を思い出し
乗せようとした自分が残酷だったと思った
自分も電車に乗れないだろう
この日から息子を学校に車で送っていく日々が始まった
午後7時
子供達を連れていとこのお通夜に
お通夜の場所はいとこの家から数分のところにある
JA管轄の会館だった。
いとこの亡くなった北六甲台は数名の方が無くなり
そこの中にある会館が
先にそちらの方の法要が行われることが決まったので
そちらに、とのJRの話だった
すべてはJRによって動いているように見えた
いとこは五人兄弟
兄弟と親戚・いとこ
いとこに友人、いろんな方が来られていた。
おしゃべり好きで面倒見のよかったいとこらしい
賑やかなお通夜だった
来ていただいた方々にお茶を出しながら
入り口に貼られたいくつものいとこの写真を見る
昨日の朝までこの写真の笑顔のまま
この世界にいきていたいとこ
残された誰もがその一瞬に起こった現実を
ただひたすら受けとめようとしているように見えた
生前のいとことの思い出話
久しぶりに会ったいとこたちとの
あんなことあった、こんなとこいった話
忘れていた思い出がいくつも蘇った
長男の本家の家の長女として生まれ
生まれながらにして
人に世話を焼くように生まれてきたようないとこ
じーの20歳離れた兄がいとこの父親
じーといとこは子供の頃
兄弟のようにして同じ家で育ったようだ
兄弟のようであり、姪っこであり
ただ一人、同じ兵庫に「おじちゃんについてきたで!」
と終の棲家を決めたいとこ
私の事情よりいとこの事情で決まる我が家の行事
もう二人で賑やかに話をする
あの光景を見る事はないのだ・・・
ただただ本当につらい別れだった
じーはひたすら大きな声で話をし笑っていた
思い出をおもしろおかしくちゃかしながら
いつものように笑っていた
100名を超える家族と親族が今同じように
こんな伝えようの無い悲しみを背負っているのか
と思うとたまらない気持ちになり
泣くことしか出来なかった
この日に
あの無残な電車の中から生存者が救出された
そのニュースがほんの少し心をほっとさせた
もうこんなつらい別れをする人が増えるのはたまらない
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