その

その後暫くの間の事を
あんまりよく覚えていない

その間、初七日があり、49日があり
また、ゴールデンウィーク・息子の誕生日があったので
何かしら覚えていそうなものなのですが
何もかも頭から欠落した時間となってしまいました

そんな中
時間も前後するのでしょうが
単発に覚えていることを
書き綴ってみたいと思います







多分初七日
 家族でいとこの家に行くと、息子さんは明日から仕事を再開するということで
 (理髪店)お店の準備をしていた。
 旦那さんは、いとこの祭壇の前で眠っていた。
 
 私たちに気が付いた旦那さんは起き上がり、息子は開店すると言うけれど
 自分まだまだお店を再開する気にならず、もう仕事もいいから、
 というような無気力な話し振りだった。
 
 そんなお父さんに対して、息子さんはがむしゃらに動いているように見えた。
 「おかあさんが今までしていた仕事を僕がする、パーマも僕の担当にするから」
 
 お店の開店準備を始めた後、
 息子さんは夕食の準備にとりかかった。手伝おう、と思ったが
 これからは残った男二人でやっていくのだ、
 そんな決意みたいなのが感じられて手をかすことは出来なかった。
 



お葬式から確か1週間ほど過ぎていたのだと思う。
 ばーさまが「そら一週間以上も誰も忘れて世話せえへんかったものなぁ」と言っていたから。
 5月の連休を皮切りに植えるはずだったお米の苗が全滅した。
 誰も事故以降忘れきって、水やりも、温度管理もしなかったのだから当然のことだった。
 みーんな農業の事を忘れきっていた。
 「今年は新米は食べられませんよ。秋からはよその米を買うてきて食べますよ」
 とじーさまが言い、
 「もうおいちゃん仕事せんとき、ゆうてせっちゃん(いとこ)があんたに言うてるんやで」
 と、ばー。
 「そうかも知れへんのう、こんな時期に逝きおって」
 と、じーもいつになく素直に答えた。




息子はいつから電車に乗れるようになったのだろう?
 五月の連休後には乗っていくから、と言いながら、連休明け
 駅のホームから電話をしてきて「吐きそうや、頭が痛い・・・」と言ったのは覚えている



私は毎朝車で殆んど福知山線と並行して走る国道を利用して通勤していた。
 事故後に感じた、電車が自分に飛び込んで来る妄想が怖く、線路が見えない
 回り道を探して、一月ほど通勤した。

 ある日、会社の用事で車で出かけ、踏み切りを通過する場所を走った。
 踏み切りを渡り始め、中ごろまで来たその瞬間、「カンカンカン・・」と警報機が鳴り始めた
 いつもは速やかに走り渡るのだけれど、その音を聞いたとたん、パニックになり
 何をどううすればいいのか分からなくなり、ブレーキを踏んでしまった。
 え、あかんやん!・・・え、えぇ!・・・・そうや渡りきらないと
 わきの下に汗かいて、すんでのところで通り抜けた。
 時間にして一秒あるか、無いかのパニックだっとと思うけれど、この恐怖感は
 今でも踏み切りを渡るたび時々蘇る。




いつごろだったのか・・・49日が終わった頃だったのか・・・
 皆で晩御飯を食べていた。
 じーが突然
 「今年はうちで作るもん、何にも売るなよ、売れるようなものは作らん、作れへんぞ」そう言った。
 
 前で食べている娘と目があった。
 涙をはらりとこぼしうつむく娘がいた。



 
6月、私が会社の研修で大阪に行かなくてはならなくなった。
 まだ、JR宝塚ー尼崎間が不通で、駅に行くまで平気だったし心配もしていなかった。
 
 会社の最寄駅から改札を入ると、左側に一人駅員さんがいて、
 前を通る人、一人一人に「ご迷惑をお掛けしています」と言って頭を下げていた
 
 何だか胸が痛んで、ムカムカした。ムカムカとは腹が立ったムカムカではなく
 胸から何かが出てきそうな気分だった。
 
 車内放送でも、一駅ごとに「今回の事故では皆様に大変ご迷惑をおかけして・・・」
 と放送された。
 JRに乗っている自分が何だか切なかった。

 やっと宝塚駅に着き、阪急に乗り換え。
 JRから阪急に乗り継ぐには、国道上を通る陸橋を渡る。
 
 JRの改札を抜け、この陸橋を渡り阪急管轄に入るまで、いたる所にJRの社員さんがいて
 皆頭をさげ「今回の事故で皆様には大変ご迷惑を・・・・」
 
 胸のムカムカは陸橋半ばで最高潮になり、吐きそうになって動けなくなった
 JR社員のだれかに叫びたい衝動に駆られる。何を叫びたいのか分からないんだけど。




確か9月、また会社の用事で大阪に行かなければならなくなった。
 研修がある時は6月に懲りたので、神戸の会場がある時はそちらに行っていたが
 神戸での研修がなく、大阪にしたのだと記憶している。
 
 JRも大阪まで開通し、車内放送は
 「長らくご迷惑をお掛けしましたが・・・」という言葉に変っていた。

 改札口にお詫びを言う駅員さんもおらず、安心した。

 電車が伊丹の駅を超え、現場に近づいてきていた。
 あのカーブはこの電車を利用している人なら、すぐに分かる急カーブ

 あぁ、あの先だー、と思ったら胸がまたムカムカして来た。



 現場には一人社員さんがいて、電車に向かって頭を下げていた
 一日あの人はああやって電車に頭を下げつづけているのだろうか?
 
 そう思うと同時に、自分の目から涙が出ているのに気が付いた。

 
・9


「売れるものは作らんぞ」
そう言ったじーでありましたが

暑い夏が来る頃には
朝起きると食堂の机の上に
「豆の畑に行っています」
「水を見に回ってきます」
広告の裏に書かれた
大きな文字を見る日が増えてきていた


9月の半ば
久しぶりに全員揃った夕食の時、
「恭子、結構ええのが出来とるぞ、豆
売ったらええぞ、好きなだけ売れや」


1年の稲作がダメになり
豆と山の芋に大切な土管理の時期を逃した
今年の我が家

それでも気持ちの整理をしながら
じーは出来る限りの農業をしたのだろう

山の芋こそ、あまり誇れる出来ではなかったけれど

今年の豆はじーの元で
素直に素直に育った豆だ

出来上がりの豆を見てそう思った

生きとし生けるもの
想いは通じるものだと今年の豆を見ると
不思議な感動をおぼえるのです。




JR事故トップに戻ります 最後のページに行きます

当WEBサイトの画像・情報・記事の転載は一切お断りさせて頂きます

〒669-2716 兵庫県篠山市乗竹445番地 杏豆園 井階恭子
tel 079-593-0410 fax 020-4668-6475
---
Copyright(c)2003-2005 anzuen All Rights Reserved---